「をかし」の「ゆるりはらり」

精神不安定な「をかし」の日々の独り言を綴っています。

自分を追い詰めすぎていたみたいです。

 

今までストレスを抱えても、ずっとネガティブでいても、自分を責めても、

体調には出るタイプではなかったのです。

毛が抜け落ちそう、血管破裂しそう、強い妄想でそんな妄想をしても、現実にはなりませんでした。しかし、最近立ち眩み、呼吸のしずらさ、目のくらみが多いこと。

イヤフォンから受ける音の振動に鼓膜も敏感です。

特にコロナの時期なので、呼吸がしづらいというのはとても怖くて。

まだ、年齢的には若いはずなのに、体から不調のサインがぞくぞくとでてきました。

 

しかも、涙が自然とでてくる。

インナーチャイルドというのでしょうか、幼い頃の自分が私を見ているのです。

憑依するかのように、私の精神は幼くなり、母親にすがるように泣き始めます。過去のトラウマ、悲しかったことを再び体感しています。

そして、一人でいることがとても怖い。その不安感に陥ったのは夜でしたが、締め切った部屋にいることが本当に怖くて、狂いそうになり、私はベランダの窓を開けて、酸素を吸いました。心の奥底の正常な私は生きており、今の状態を落ち着けようとします。

「本当にダメなら救急車呼ぼう」、「実家が近いので夜中だけどもしこれ以上一人が不安なら向かおう」、「大丈夫、大丈夫だよ私しんどいねしんどいね」

不安感についてのネット記事を読めば安心するかと思ったけど、余計にパニック症状に陥りそうになるので、落ち着ける映像を見る。新しいものではなくて、過去に好んで繰り返し見ていた動画や、頑張っていた時期にみていた動画など。

少し安心してくるが、また部屋を見渡すと不安になる。

幽霊でもいるのではないかと怖くなり、しかし想像しているばかりではもっと体調が悪くなるので、大島てるの事故物件サイトであきらめる思いで、自分のマンションを検索。炎マークはない。安心する。

 

最近アルジャーノンに花束をを読んだ。主人公の感覚を思い出し、私は痴ほうになる想像をしたくもないのにしてしまう。資格本を手にとる。読めるが内容が全く入ってこない。日本語が気持ち悪い。私はスペイン語の本を手に取る。頭にすらすら入ってくる。優しい、気持ちの良い、わかりやすいはっきりした前向きな言語にほっとする。ふと日本の代表的な政治家を思い出す。彼らは私を救わない、国民も救わない、自分の高水準なライフライン確保が第一、そんなリーダーにさらに不安になり、動悸。さらに、私は毎日複数人の日本人客と会話するが、一部の人の態度の高慢なこと。良い人も半数いるため国民性とひとくくりにはしないが、まあ個人的な感情を迷惑をかけないならいくらでも放出してよいが(むしろため込むよりするべき)、全くの他人を不快にする、迷惑をかける、傷つける勢いで、ぶちまけ当たってくる人は許せない。企業の端くれで働いているなら一応代表としてかかわっているわけだが、対人間なのを忘れるな、自分が傷ついたからといって、他人を傷つけていいのか。そんなの、過去の戦争で、その当時生きていなかった世代にお前が肩代わりになって責任をとれ、代わりに辛い思いをしろと言っているのと変わらないじゃないか。しかも、私は社会人になってまだ数年目。年上を対応することが多いわけだけど、自分より上の人間が感情的すぎる。さらには、全て一から10どころか100まで説明しないと(しかも手取り足取り)動かない、選択できない人の多いこと。それをしないと不親切だとぼやく。たまに外国人を対応するが、彼らは多分外国人の中でも、よく勉強をしてきた人だと思う。参考資料を送ると、ほとんど自分でやってのける。日本人の何も考えていない人たちは、怒り、感情的で、資料(日本語)を送っても読む前からわからないと言い、手取り足取り教えろという。面白い。

海外で日本人は賢いとよく聞いた。確かに、賢い人は多いと思う。一方でセンシティブな人も多いので大変だ。(私もセンシティブ体質だ)そして、勘違いさんが多い。

社会にでて、結構自分都合でわがままな大人が多いなということがわかって、会社の人も裏あって仲良くするので(当たり前と考える人もいるだろう)、純粋な人間関係がないことに絶望するし、私の心もどうにも前のようには戻らないのだと思うと悲しい。

社会は面白い、学生時代に関わらなかった人と関われることが発見につながる。

しかし、時に良い人間ばかりではないことに絶望する。怖いと思う。

だけど、私はまだ片足を突っ込んだばかりで、狭い世界しかみていないのだと思う。

コロナが終わったら、海外にもう一度行きたい。今度は前の反省を生かして、もっと語学を磨かなければ。言葉がわからないとコミュニケーションが乏しくなり、健全な日々を送れなくなるから。それでも、私は日本という国にとどまって、その国の価値観しか知らないことは怖いことだと思う。不本意に我慢しなければいけないことがたくさんあるから。

 

途中から話がずれていることを知りつつ書き進めた。こうやって、別の可能性があること、希望があることを自分にしみこませて、絶望から自分を抜け出すのだ。

息苦しさから、この間病院へ行くと、「ストレス」とか「辛いことがあるのかな」という原因の診断だった。心療内科を勧められた。

今より、昔のほうが辛かったのに、なぜ、今思い返すかのように、今まで感じてきたトラウマや罪悪感が、不安の塊となって、私に降り注いだのだろうか。昔の自分が現れたのだろうか。もしかしたら、今の仕事もつらいのかもしれない。でも、前の仕事よりも少しはましなはずなのにな。

本当にあの夜は走馬灯のように小学生時代の自分が頭を駆け巡り、死ぬのだと思って恐怖だった。しかし、今は落ち着いている。結局心療内科も行っていないが、いずれ行くだろう。傷ついた心と体を労わらなければ。