「をかし」の「ゆるりはらり」

精神不安定な「をかし」の日々の独り言を綴っています。

百円均一のダイヤモンドウロコ取りで浴槽の鏡を磨いたら、逆に傷がついて涙のをかしです。

鏡・・何か加工でもされていたのかな・・。必死に磨いて気が付けば猫のひっかき傷のようなうっすらした跡がたくさんできていました・・。水気を拭けば気が付かないけど、濡らすと・・・😿

一か月間、ユニットバズの電球が切れていましたが、それもようやく変えました。

やっぱり明るいって良いね。明るい電球は家をオアシスにする。

 

今回も思ったことをぽつりぽつり書いていきます。

 

今は前回に引き続き、やりたいことをとことんやっている。

二月中の疲れモードからも回復し、1月ほどの猛進さはないけれど、とにかく飛び込んでみている。

すると、自分の中である項目に対しては満足という感覚もじわりと感じだしてきた。

まだ、やりたくて気になっているが踏みとどまっている項目もいくつかある。

中には、勇気というか、実行するには本能的に気が引けるものもあって。それは、他人が関与するものだから。

そんな自意識過剰な葛藤もありつつも、動いているって楽しいと思う。

ぴったり動かなかった、動けなかったし、それが正しいと思っていたし、それでよかった時期の反動か、もともと二面性があるのかわからないけれど。

一人でてんやわんや動いている時間もまた、現実から目を背けている瞬間なのかもしれない。

私にとって、現実とは、社会のことを指しているのだなと書いて気が付いた。

他者との関係の中にはいること。

私は私の現実を生きて居る。自分の日常の中の他人には、以前のように慣れてきている。他人が見えないようにイメージする必要もない。(イヤフォンは必須だけど。)

しかし、いまだ、社会の中の他人は怖い。いや、会社か?組織や団体が怖いのかもしれない。学校の教室みたいな。

そこにはいると、とたん自分がすごく小さくならないといけない気がする。

自分が許されない気がする。可愛くない自分は、他の面で突き抜けていないと、存在を無視される。どうしても、そう感じる根拠となる学生時代からの多々あるエピソードを乗り越えることができない。受け入れても、これからどういう姿勢でいれば自分が一番楽しく生きることができるのか、わからない。

 

今は、一旦考えないことにしている。

だから、自分がやりたいことをようやくとことんやり始めている。

客観視をやめたら、自由に動ける。自分の容姿や中身や過去を忘れたら、楽しく動ける。

たまに、苦手な人などに対面したり、社会の中の人に対面する時は、客観視して自分がその人にとっておかしい人にならないか気をつける。

久々のメイクも、落ち着いてきた。メイク用品として必要なものはそろったし、ここ最近はメイク技術が自己ベストを記録したと思う。

もう待てないから色々始めているけど、容姿のことを脇に寄せるではなく、良い意味でもう気にしなくても良くなるために、メイクもパーツのサロンも、運動もしている。

最近はヨガを初めて、自分の体がいかに硬直していたか、呼吸が浅かったか、そういった部分も含めて、自分の体を見るようにしている。

冷え性に対してもどうでもよいやと放置するでなく、治す気満々だ。足先がぽかぽかだと、こうもはかどるのか、調子が良いのか・・・と驚く。

そして、全ては、他人のためではなく、総じて自分のために行っていることに気が付く。ああ。。でもメイクはすこし他人のために入っているかも。自分のためだけなら、もう少しヘルシーにしている。

 

秋に勉強のほうを頑張っていた時は、行動している自分が好きな反面、抑圧感もあったけれど、今の運動したり踊ったりしている自分は、自分が好きだし、抑圧感がない。無理していないというか、頑張りを表明しなくてもよいというか。競争がなくて好きだ。

成果は自分に向く。比較の必要がない。もともと、大得意というわけでもないから、自分が認められないことに悔しさもない。だけど、落ちたり、平行線でもなく、それどころか、一つ一つできるようになっていく実感が楽しい。

私はずっと、運動が苦手なタイプだと思っていた。足が遅くて、運動会は嫌いだった。

だけど、今、運動することにハマっている。運動楽しい。体育で習わなかった個人ベースの運動がことごとく楽しい。

 

すんなり消せたインスタとX。

前回まで、ぐずぐずと脱出できなかったSNS

だけど、本格的に見ているとしんどくなって、ようやく端末から消した。

自分の投稿は、PCから予約機能を使って引き続き行うことにする。

特にインスタは、久しぶりに入れたもので、DMがこないかずっとそわそわ。それに人気投稿のコメント欄がもう・・・Xよりタチが悪かった。メッセージ通知だけONにしてApp開かなければよいやと思っていたけど、それは自分自身が出来ず。Appって無意識に開けてしまう、そして、投稿が一瞬目に入ってから、気づいて閉じる。時すでに遅し。他人の私情をSNSで知ることを、今年は辞めると決意してたのに。知るなら本人から直接聞くようにしたい。そんな、やってしまった・・・ということが数十回続いてついに、DMの価値をあきらめてApp削除したのでした。LINEは残しているよ。

 

久々の片づけ。

高校生の時に断捨離をしてから、私は必要なものしかない部屋の虜なのだけど・・・

モノがそう多くないにも関わらず、部屋がごちゃっとしているように感じる。

そんな時期が何度かくる。単純に、気力低下で片づけられていないとか、今年頭みたいに、いろいろ試したくて買った時期とか。

断捨離するほどモノは無いけど、、。よくよく見てみれば、細かいモノを増やしていたて、収納の域を超えている。(そもそも収納自体がほとんどない)

それに、現状からか貧乏性の精神でとってあるものもちらほら・・。

ということで、もう一度、モノの見直しをしている。

書類がかなり多かった。中途半端なアイデアメモも。

写真に撮ったり・・・メルカリに出したり、捨てたり・・・

イデアもいくつかはすぐに形にして完成させた。

あとは掃除でピカピカにしたい。

ちなみに、なぜか最近キッチンだけは常にピカピカだ。

 

もうすぐ四月。

 

 

 

 

 

生理期間中の朝、また自分の考えが、12月末に戻る。

家庭を築きたい、背伸びしたくない、今現在に目を向け、日々生活する幸せ。誰かと。

12月末、そんな考えと、また一つ年を取ることで誰とも結ばれなく恐れから私は今まででの自分からは考えられないほどの行動を起こした。

恋愛だけは本当に避けてきた。外見にコンプレックスがあって。

自分自身が自分の顔を嫌いなわけではない。整形してからは、鏡を見る回数が減ったし(執拗に顔を気にすることがなくなった)、鏡に写る自分が今では好きだ。

だけど、世間的に見ると、ものすんごく可愛い人ではないのだろうと思う。

そんなわけだったが、そんなこと言っていても、どうしようもなく、さらに言うと、世間から私に対する接し方のパターンは学生時代の記録で止まっている。

だから、1月の一か月間、世間が今の私をどう評価しているのか、多くの人に出会って、なんとなくわかった気がする。かつ、結論は、人による。となった。

学生時代は、明らかなキャラクター付けがあったり、ポジションに留まることでくの人が私に対する評価を一致させていた気がする。

しかし、大人になると、人によって、私への見方がそれぞれ違う気がする。それは相手の環境や経験値、好みによって変わる。

人への見方が学生時代から変わらない人とは合わないだろうし、根からの面食い(王道な)とも合わないだろう。

そして、私はまだまだ外見を磨きたいし、もっとコミュニケーション能力が必要だとも感じた。私の会話は、水面をすーーーと薄ーく滑るのような、さしあたりのない内容ばかりな気がする。安全圏をずっと行き来していて、深見がない。自分自身が秘密主義であり、以前の会社でも言われたが、何を考えているのかわからないのだろう。

一貫性を持った生き方をしてこなかったので、自分についての言語化が難しい。

全てバラバラのパーツなのだ。そして、それを伝えるのが怖い。

私は世間を会社だと認識しているのかも。本当は一貫性があることなんて強制でも優れているわけでもないのに、自分の行動の動機が説明できないと、あやふやな人間と認識され、印象が悪いと感じている。学歴のようなものだ。高学歴だったら、大学名を言うことをためらわない。中身が生じていなくても、むしろ、カバーされるから。

目に見てわかりやすいバッジ。欲しい。

自分がそう考えるからこそ、バッジの有無にかかわらず、自分に合うかどうかお互いがきちんと現実を知らなければいけないんだな。

楽して、バッジで判断してはいけないんだな。

 

少し疲れたのでここで終わります。

 

 

 

 

 

今日はいいことがあった。

 

最近、良い人と再会することが増えた気がする。

再開であるから、その人たちは、過去に自分が出会ってきた人となる。

接点が深くなかったことから、もう会うことはないかもしれないと思っていたし、情けない状況の自分を見せたくない一心だったので少し前の自分なら会わなかったかもしれない、だけど、今会っている。

そうして、再び、そういう人たちと出会うと、自然と楽しい時間を過ごすことができる。心がまいのめりになる。

緊張して、自分をうまくみせようとする癖は相変わらずだが、過去を思い出して自然体に接することが出来そうな自分がいる。今日は、お相手の話が面白くて、そんな意識は吹っ飛んだ。究極である。

楽しいと自意識もさすがに吹っ飛ぶんだな・・・。

 

そんな人たちと話していると、自分が染まっていた卑劣さに気が付く。

ここは、改めなければいけないと思った。

普通や加減がわからなくなってしまっている部分も多々あるので、人と会って話すことで、また知っていく。

反応も鈍いというか、話を広げるために頭を動かすことができなくなっている。

それは、知っていることが少ないからだろう。今まで自分が経験してきたことなら、それを元に話せるが、そうでない話への反応が、へー、すごい。。としか言葉がでてこない・・・。

昔、意識できていたことも、できなくなっている。率直は結構だが、これを言われた人が後にどう影響されるのか、意識して言葉選びはするが、たまにとんでもなく抜け落ちてしまう。その抜け落ちる部分が、私が、過去には想像できていたのに、今は想像ができなくなっているもの。

 

頭がたまに思考停止になって、オートモードになる。その時に出やすい。

デジタルデトックスとかして、頭休ませないとな・・・。

そして、本読んで言葉勉強しないとな・・・。

 

出会いはスローに。

予定を詰めすぎるのも一旦やめる。

 

 

 

最近、またスタバで作業したくなる。

多分、家の中にモノが増えて快適じゃなくなったからだと思う。

もともと収納が少ない部屋なので、収まらない、収める場所が迷子になっていて紙袋に非難させている書類とか小物とかもある。

「外出」に関するモノが増えて、落ち着かないというか、緊張感がやや漂っている気がする。

上手く模様替えして、家で過ごしたくなるような空間にする。

多分買い物の紙袋とか、コートとかが、見えていると、集中できる空間じゃなくなるのだと思う。書き終えたら、さっそくどうにかしよう。

ーーー

 

最近はまたネトフリや、YouTubeに浸かっている。

西洋舞台のドラマや、お笑いコント、を見ている。お笑い芸人さんのラジオも聴く。

浸かっているけど、以前のような不安をあおったり、人をジャッジするような啓発系のチャンネルを見ているわけではないので、自分の中では、ヨシ。である。

ただ、また、インスタ開ける習慣できてしまった・・。

DMが来ていないか確認するために。

DMだけ通知オンにしているので、携帯の受信モードをオンにすれば、開かなくても確認できるのに。

インスタは今のところ、心に害が100%(本当にしょげる・・・)ので、見ないに限る。今年は、友達の生活をインスタで知らないということも、自分のなかで掲げている。すぐに忘れそうになるが、ここで改めて思い出したのでヨシ。

 

ーーー

オードリーのラジオが以前から好きで、若林さん薯の「社会人大学人見知り学部卒業見込み」を借りてきた。本出しているの知らなかったな。

まだ冒頭部しか読んでいないけど、「趣味」の話、良かった。

私も、趣味って何だろう・・よくわからないものだな、と思っており、自己紹介では毎度困っていた。それは、きっと趣味と特技を混同していたからだと思う。

趣味でセンスが問われ、その人のなりが判断されるような気がしていた。

趣味は音楽と言えば曲やバンドについてヲタク級に詳しくないといけない、とかそういう風に思っていた。語れるレベルに達して初めて趣味になるのではないか、と。

しかし、実際は、趣味とは軽い欲求のようなものかもしれない。

普通に過ごしていて、すっごく何かがしたくなる。それが、定期的に起こる。

あーーポケカラで歌いたい。

またラーメン食べたくなってきた。

体動かさないと死にそう・・。

そんな程度のことが、毎度毎度定期的にやってくる。それが趣味だったのか、と。

めちゃくちゃ個人的なもので、どうでもよくて、そのくせ、性癖のようにその人の生態を観察できるような。趣味とは、とんでもなくプライベートなものなのだと思った。

趣味、それは、その人はどうしても定期的にしたくなる衝動に駆られること。

自分の中では、これがしっくりきた。

趣味と特技は別物。趣味に尊厳も詳しさも、かっこよさも、何もないのだった。

経験とも混ぜてはいけない。

特技とも混ぜてはいけない。

私は趣味と聞かれると、無し、か、もしくは、特技とか、仕事でしていた自分のできることを答えていた。

だけど、実は義務感でやっていたりするんだよなと思って、腑に落ちないことがあった。それは、自分が趣味という言葉を広義で捉え、(定期的にすること、好きなことという認識だった)かつ、重くとらえるほど素晴らしく崇高な言葉だと思っていたからだろう。趣味の内容で、キャラクターを分類されるのが大嫌いだった。そして、自分も、趣味をきくことで、相手のイメージを構成していた事実がある。

ーーー

 

 

一月からずっと、主に、人に会えるように見た目を整えるためのことを行ってきた。

昔の自分が人前にでていた見た目まで、ケア用品とメイク道具を入手、サロンに行き、ほぼ戻せたと思う。自分に合う服の基準も腑に落ちてわかった。(今までより、服選びの視野が広がった)ただし、体重は増えているので、あと5キロくらい痩せなければいけない。

それに関しては、食事や日々の運動でどうにか叶いそうだ。

 

それから、ホワイトニング。通っている歯医者がホワイトニングのメニューがなさそうだったので別の歯医者に行ったら、虫歯が4本😿一本の歯以外は自覚がなかったので、驚き。半年に一回歯医者通っていたのに😿ただ、新しくいった歯医者さんで「??」と思うことがあり、もう一軒、別の歯医者さんでも見てもらう予定。

クリーニングを予約したのに、ホワイトニングの説明をするからと、前の歯四本しか磨いてくれなかったんよね・・・。私が病院を出た後、シャッターが下りたので、時間だったのだろうけどね。利益重視だと感じた。私を担当してくれた歯医者さんも、サイトに名前無かった💦(院長ではない、隔週で来ているお医者さんだと思う)質問はありますか?と虫歯の説明の際たびたび聞いてくれたから、良い人ではあると思うんだけど・・・。

グーグルの評価も私の地域や他の歯医者と比べて、+200件くらい口コミがある。ほとんど☆5。さすがに、サクラ入っているよなと思ったけど、行ってみないと本当かどうか不明なので、一旦行った。

ホワイトニングの内容や値段は魅力的だったし、ホームホワイトニングなら問題ないかと思ったけど、虫歯治療をここで行うのは怖いので、一旦セカンドオピニオンに行く。

 

 

メイクに関しては、昔と完全に同じように行うと、似合わなかった。埋没をしたため、昔は重宝していたアイラインの引きどころがわからなくなった。

さらに、インスタに流れてくるような最近人気のメイク方法も似合わなかった。

太陽光の下では、きゃばくなり、おばさん感が増した。髪の毛を巻くと、さらに増す。

気合十分な、あばずれ感が出る。

いっそ土台から変えようかと、YouTubeで整形級のメイクをしている綺麗な人のメイクを試すも、これまた、自分には合わない。

ひたすらYouTubeに上がっているいろいろな人のメイクを試す。

「あ、これだ」ようやく、今の自分に合うメイクを見つける。

自分の素顔を大きく変えず、自然に繊細に行うメイク。

自分はどうやら、動画内でいうNGメイクをしていたようだ。知識更新がされていないので、昔はOKメイクだったであろうやりかただ。

流行りの顔ではない自分に自信がないので、メイクで変装レベルに塗り替えてしまいたいという願望があったが、むしろ、こっちのほうが良いなと思うメイクに一旦落ち着けた。自分を隠してあとからネタ晴らしするのはしんどいし、このメイクで好みじゃない人は、別に去ってくれても良いかと思った。

 

週一回、今までやってみたかった運動系の習い事も始めた。

 

 

この取り戻し期間の間に、マッチングアプリで知った人と3人ほど会ったり、お見合いパーティーにも行った。お見合いパーティーは衝動で行ったのだが、自分の場合は、お見合いパーティーのほうが合っているかもしれないと思った。(個別シート式が良かった)

今はマッチングアプリを休憩しており、以前にマッチングした人と会う予定も二月いっぱいまでにしている。

 

超初心者の個人的な感想を書き出してみる。改善点が見つかるかもしれない。

マッチングアプリの活動を小さくしようと思った理由は

・生活のキャパオーバー(特にたくさんのメッセージのやり取りで体力消耗)

・あくまでまずは人として知り合いたいが、どうしても恋愛スタートみたいになり、恋愛ごっこみたいな違和感を感じる時がある

・相手を知るためのメッセージのやり取りの返信に時間がかかる&真剣なため長文になるが毎度返すことが負担に感じる。

・やり取りを長くかわしたり、電話した相手の場合、会ってみて合わなかったら・・その際に関係をすっぱり切る際にエネルギーを使う(モノを買うときより、捨てる時のほうが人間はエネルギーを使うのと一緒だ・・・)

・会う時の出費がかかる(割り勘派)。いろんな人を知るために、少なくとも数人とはお会いするわけだから。お昼のカフェなら良いけど、ディナー誘われたら、野口さん複数人が去る。・・・もし今後会うなら、初対面はカフェにしよう!と今決めた。

・顔重視←これが大きい。

顔重視であることはかまわないが(どうにかできることじゃないし)、写真やメッセージのやり取りで夢を膨らませられて、会ってみて、違うなあと思われたりするのが怖い。お見合いパーティなら最初から選ばない相手をマッチングアプリは選びかねる。そして、会うと合わない結果になるのに、その段階になるまでに、相手にたくさんの時間を使うことになる。もしかしたら、話してみないと・・といった可能性を手放せない自分には、難しい。

それに、一番辛いのは、相手がそうなること。婚活パーティは選ばれなかった時点で、わかりやすくて良い。要は必要以上に繕う必要がなくて良い。夢を膨らませさせずに済むし、自分も膨らまずに済む。初対面の人とのメッセージなんて、どう頑張っても丁寧にならざる得ないし、写真はわざわざ写り悪いの使わないよ、自分でも見たくないのにそれをネットに載せることができるのか、否。

 

大きく負担に感じている部分を描きだした。

自分に自信がなくてそうなってしまっている部分も大きいかな。

メッセージが長文になる部分とか。相手に合わせようとする自己犠牲魂が強く出てしまっているかも。自己犠牲魂は、気に入ってもらえるという点では正しくても、それを当たり前とする相手がお相手だと続かないからね、自分がすり減って本末転倒になる。

また、費用の件は、初対面はカフェ提案→カフェした後に、お互いに合うと思ったらランチやディナーで解決しそうだ。

 

悪い部分を言いたいわけではないので・・・

マッチングアプリの良いところは、デメリットと矛盾するが、とにかくたくさんの人と話をすることができる点だ。これは、普段から、よく人と話す人にとっては特にメリットと感じないかもしれないが、私は初対面で会う人が数年いなかったので、知れてよかった。人と話すと自分が見えてくる。

 

お見合いパーティは、次回参加する時に同じ人がいると気まずいなとかは考えてしまう。(だから二回目はいけていない)

それから、話す時間は確かに短い。だけど、1時間くらいという制約はありがたい。

相手の反応がわかりやすいのも良い。

 

 

一旦、相場がわかってきた。

ここで、手につかなかった勉強や、身の回りのことに再び目を向けられるようになった。

やはり、自分を支えるのは自分だ。

止まっていた自分のできること、得意なこと、仕事を今度は現実に引き上げていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二月に入った。

 

一月は、ずっと、失われた時間を取り戻していた。

近所で全てこと済ませていた(ことが済んでいた)長い期間から一転。

週に何度か都心部へ出るようになった。必要なモノを買ったり、マッチングした人に会ったり。

去年の自分では信じられない。

都心部は、人混みにいるだけでしんどくて、早く帰りたい場所だった。美容も、生活用品も購入するほど興味なかった。

人を探知しないように歩き、ウィンドウショッピングも何も楽しくなかった。

だけど、今は人が気にならない。大丈夫になったわけではない。やはり、周りを意識するればしんどいのだが、それどころではないという感じ。

コスメや美容にアンテナが張って、とにかく必要なモノを揃えた。

眉サロンやまつ毛パーマにも行った。眉サロンはもともと半年に一回のペースくらいで通っていたけど、まつパは正直縁がなかった。ビューラーで良いかと思っていたから。でも、今は中途半端に対策している場合ではない。

昔よりずっと落ち込んでしまったその空気を取っ払うために、どうしても垢抜けたい。

在宅を初めてから、身だしなみ代はセーブされていたが、それが一気に放出してしまった。周りより、ずっと省エネだったけど、お手入れ水準が平均に並んだ。

そして、一軍ばかりだ。全部使う。必要なものばかり。それくらい、コスメや美容品を持っていなかった。

鞄もリュックサックと百均のトートしかなかったので、一つ人に会う用に購入。

一生使わないと思っていたカラコンも購入。

とにかく、コスメ、美容、服装を使用必須の一軍分だけ購入。なんでも、一つあればよい。連日で人に会う場合だと服が足りないけれども、必要なものは全てそろったので、一旦モノの購入はフィニッシュ。

オーラルグッズだけは過剰に購入。

とにかく、全力。そうでないと、諦めがつかない。全力でやってもダメなら、諦めがつく。私は恋愛には向いていない人種だと、受け入れることができる。

ホワイトニングをしようと歯医者にいったところで、

これ以上の出費は経済的苦痛を感じる気がする感じがした。

ここからは、自分が将来収入を得ることができるかという予定が関わってくる。

働けるのか私は。働くつもりでいたが。社会復帰できる状態まで持っていきたい。

 

今まで、考えるってことがいまいちわからなかった。

会社を決めるときに、仕事内容了承!給料良し!保障良し!という感じで決めていた。

とにかく見える情報に対して、大丈夫であるか確認する感じ。

そして、それを考えていると思っていた。

これくらいの給料があれば生活できる・・仕事内容は実際にやってみないとわからないけど、興味ある得意自分でもできるか、やってみたいな。とか。

自分自身でも、考えているという手ごたえがなかった。

でも、それは当たり前かもしれない。前例がないから。やってみないとわからないという部分がとても多い。

だけど、最近、私は、学生時代の自分の感じ方とかを思い出せるようになって、こういう人たちがいるとプレッシャーだったなとか、一歩引いてしまうんだよな、とか。

自分が制御されてしまう(コントロールが難しい)状態ってどんな時だったかな、とかを思い出す。

自分がこれが嫌だったとか、もっと具体的な〇〇が好き嫌いとかじゃなく、思考停止になったり、その仕事をサブだと思いたいと感じた瞬間だったりを思い出す。

そうすると、この仕事ちょっと自分には危険かも、とか、逆に、特に今まで感じたnot goodになった感じと当てはまりそうにないなと考えるようになる。

やっと考えるのスタートに立てた感じ。

今までは、回顧の沼にハマってエピソードを脳が何度も何度も再生していた状態だったので、全然使われ方というか、方向が違うなと感じた。

 

そして、やはり、情報が少なすぎるとも感じた。

ここ数年は本当に人と関わってこなかったから、自分が何かに対してどう感じるのかという情報が限られている。

一人時間が長くなって、一見、自分とすごく向き合っているように思っていたけど、それは過去の清算や自分との対話をしているのであって、自分ってこれが嫌なんだとか、こういう時こう感じるんだとかを知れるのは、誰かと話したり、一緒に過ごす時だ。

だから、とにかく、今は人に会う。

何かに参加する。

何かを観に行く。

 

昔働いていた時や、誰かと会っていた時は自分の感じ方に敏感ではあったけど、事象に悩まされっぱなしだった。客観的に言語に落とし込んでもうまくいかなかった。それは、解決しようとしていたからだと思う。

今は、こういうのは合わないんだなとか思える。拙くても言葉にする。同じ行為をしているようで、大事なポイントが昔と違う。

 

 

 

 

 

一月も下旬。

 

焦り、もやもやは形を変えて、

突発的で不安定な活力になった。

 

家庭に落ち着きたいという気持ちから

一転。

以前の件でもあったように、また、大きな変化を欲望する自分が心にいる。

何かになりたいではなくて、とにかく今まで、後回しにしていた、たくさん落としてきた経験を体験したい自分がいる。未来向かってではなく、過去に回収できなかったものを今一気に回収したい自分がいる。(過去を振り返りたいわけではない。永遠ループの内省はこりごりだ。あくまでも、心は現在にいる。)

たくさん習い事をしたい自分がいる。

気になってどうしようもなかったことをとにかくやってみたい自分がいる。

本当は、今の年齢で、もっとたくさんのことを経験したかった自分がいる。

周りがやっていることは当然経験していて、さらに、もっと他の人がやっていないことをたくさん経験している自分でありたかったようだ。

そういう、傾向がありつつ、他にそうなっている心あたりがある。

それは、YouTube動画や他の人の近状報告だ。

距離をうまく置いていたはずだったのに、また近くなる。

東京で暮らすユーチューバ、そのまま東京で結婚し、戻ってくることなく、まだまだ人生を東京で暮らす。

広告のようになだれ込む。自分の中に気持ちは1ミクロンもなかったのに、マクドナルドの広告を見た瞬間に新作バーガーが食べたくなる。

そんな感じだ。見ているうちに私もあれこれしたくなるのだ。同じような経験がしたくなるのだ。同じような気持ちを味わいたくなる。

私の中になかった気持ちが、自発的には生まれない気持ちが、

途端、まるで、自分が自らそういう素質があったように、芽生える。

みなければ、なかった気持ち。

また、エンタメだという認識がなくなっていた。

気を付けないとなあ。

自分の嗅覚で決めることのほうが、自分には合ってることが多い。

それを今、完全に無視、失っている状態だから、スマホ断食って大切なんだな。。

 

 

久々に化粧をした。

食事を変えたり、体の変な癖を治そうと継続していることもあり、

数か月前の私より、ずっと綺麗になれていた。(自分比較で。)

大学生の自分より、良い。新卒頃の自分と同等か、もう少し数字を戻せば戻れるといったくらいだ。きっかけは、他人。誰というわけではない。だけど、他人に会う予定がある。小さい頃から私を知ってくれていてどんな自分も許容してくれる優しい友人ではない。これから出会う全く接点のない人たち。

まだ誰とも会っていないが、一月下旬に会う予定を入れ始めた。

そのために、日々調節。

急に今までどうしてもできなかった、減量がうまく行き始めたり、美容の情報が視界に入るようになる。

新卒の時もそうだった。

毎日コツコツは苦手だ。だけど、実現したいと思う目標に向かって準備をすることはできる。目標に向かって、私はコツコツ積み上げない。

とにかく、急ピッチで、一点集中する。準備に費やす期間は目標によって異なるが、期間が長ければそれは人はコツコツと表現するかもしれない。でも、私にとっては、コツコツではない。それ以外が視野からなくなるからだ。両立はできない。ほとんど、期間は目標のために費やす。一日。それはコツコツではない。

本当はコツコツしたい。同時進行したい。

だけど、とたん中途半端になるからだめだ。

目標によっては、同じゴールのために違うことを同時進行できることもある。

全て、必要なことならできる。

 

今まで、私は迷っていた。失敗を恐れていた。あれだけ部活を途中で辞めておきながら、何かから途中で脱線することの面倒くささ厄介さ、エネルギーを必要とすることが、気軽に行動を起こすことができない原因の一つとなっていた。

だけど、時間の無さが私を駆り立てる。

 

皆が一通り経験してきて卒業し始めているようなことを、私は今から入門すると思うと少し心がへばる感じもする。

 

家庭に落ち着きたいという気持ちから一転したということを最初に書いたが、

その気持ちが完全に消えているわけではない。

むしろ、これからことあるたびに、この気持ちはより強く、優勢になるだろう。

平穏に、楽しく。

 

大学生の時に、どういう人生が良いか、四択から選ぶ機会があった。

①ジェットコースターのような人生(変化が大きい。刺激的)

②観覧船のような人生(変化がなだらか)

残り二つは忘れた。

私は①のジェットコースターのような人生を選択した。だけど、①を求めて居ながらも、適正は②だと思う。

小さなことで充分幸せになれる。心も安定する。自分のポテンシャルから見ても、私が最高に生命力を発揮できるのは、②の環境だと思う。

だけど、私は好奇心が強い面があって、①がどうしても気になるのだ。いや、①じゃないと、たくさん経験できないと思っているのかもしれない。何を持って、刺激的な経験というのかもよくわからないけど。①の速攻性、スピード感に、乗ってみたいのかもしれない。劇薬を飲みたい。どうなるの!?って。もちろん、人を傷つけることがわかりきっているような刺激はいらない。そうではなく、なんだか心が騒がしいのだ。飛びまわりたいような。現実は、じーーーーっとして、全く静かなのだけど。

 

しばらくの数年間、自分が失っていた感情、自分にはなかった感情が去年の末から今現在にかけて、ごうごうとまた燃えている。

しょうもない経験がたくさんしたいのだ。

そのために稼ぎたい。

大学生ぶりに、前向きな意味での稼ぎたいという気持ちが沸いた。

ただ、やみくもに探すことは絶対しない。本末転倒は絶対しない。

しないというより、体が拒否する。

 

稼ぐ過程も、しょうもない経験、もしくは尊い経験の過程でありたい。

 

なんだか、不安定というか、躁みたいなものの中にいる気がする。(躁鬱とは診断されていない)

ただ、やらないほうが怖いが、失敗したら怖いを上回っているのだ。

やって意味がなかった、無駄だった、よりも。

 

何にでも興味が向いているわけではない。

興味が向かず使命感になってしまっているものもある。絵とか。

私は見失っているかもしれない。

絵は大切だ。守らなければいけない。続ける。

 

心に余裕を持って、安心して頑張りたかった。

適齢期を過ぎると、皆、習い事になる。自分が気持ち良いと思えるラインで好きなことができる。

それは、良いことかな?

それとも、意味がないことかな?

そんな基準で考えることがそろそ合わなくなってきている。

 

純粋に楽しむ。

安心して、純粋に楽しむ。

欠けていた部分が、戻ったり戻らなかったり。

それがここ数日の自分。

 

自分と全く違う景色や環境で過ごしている人がいることに気が付いて!

私が素敵だな、センス良いな、、仲良くなりたいな、そんな友達は、四択の中で、②の人生を選んでいたなーだから、②の選択肢のこと良く覚えているんだ。